不便だけど、不幸じゃない。/菰田雅人さん

白杖とは、視覚に障がいを持つ人の歩行を補助するもの。そう思っていたけれど、調べてみると、視覚障がいであることを周囲にわかってもらうためのシンボルでもあることを知りました。人の情報収集の約8割は、視覚情報によるものだといわれています。視力を失った人がどのように歩き、生活しているのか。白杖を持って歩くのは、どんな日常なのか。誰かの話を通して少しでも理解したいと思い、視覚障がいを持つ菰田(こもだ)さんに話を聞きました。

——菰田さんの目が見えなくなり始めたのは、いつですか?

4年前、2020年2月頃でした。夜、車を運転していたら対向車のライトが異様に眩しいというのが最初やったんかな。眼科では加齢ですよと言われて(苦笑)、当時46歳でした。一ヶ月後、それにしてもおかしいともう一度診察を受け、言われるがまま総合病院でさまざまな検査をするも病名がはっきりせず、医大附属病院へ。そこでやっと病名がわかり、指定難病「レーベル遺伝性視神経症」と診断されました。

僕の場合は両眼1.0ありましたが半年かけて視力がどんどん落ちていき、一年後には0.02まで下がって、現在もそれくらいの視力です。視神経に関わる病気のため、視力矯正では対処できません。そして、この病気の特徴のとおり、視野中央が見えなくなりました。病名がわかった時はどこか楽観的で、まさかこんなにも見えなくなるとは、思ってもいなかったですね。

——どんなふうに見えている状態なのでしょうか?

簡単にいえば、ほとんど見えておらんのです。例えば今、目の前に人が座っていること、白い服を着ていることはなんとなくわかりますが、髪の毛の色や顔の表情などはわかりません。真ん中が欠けているから、ずっと見続けるのが難しいのもあります。視界全体はビニールハウスを通したような感覚で、ぼやーっとしています。室内の蛍光灯くらいなら大丈夫ですが、眩しさに弱く、明るすぎる場所はきつい。一方で、暗すぎる場所は、ほとんど見えなくなってしまいます。視覚障がいといってもちくわを覗いているような「視野狭窄」や片側半分が見えないなど、その見え方は十人十色です。

——日常的に、どんなことに一番困りますか?

何もないって言えたらいいんやけど(苦笑)、すべてに困りますね。一番……うーん、やっぱりトイレかな。外でトイレに行くと、男性用の小便器はなんとなく見えるんですが、個室だと難しい。女性のヘルパーさんとショッピングモールで買い物中にトイレに行きたくなっても、中に入ってもらうわけにもいかんし。トイレットペーパーやウォシュレットの位置、流すボタンがどこにあるのか、センサーなのかレバーなのかもわからないので、トイレはかなり困ります。

仕方ないのでトイレにいる人に「すいませんけど目が見えなくて、ここは流すボタンどこにあるんです?」って聞きますね。立ち上がったら流れるタイプの時はなんやねんって感じで(笑)、これが一番わかりにくいです。流すボタンのつもりが非常用ボタンだったなんてことはあるあるです。そういうことを、場所ごとに覚えてなんとかやっています。

——なるほど。ほとんどの日常動作は視覚に頼っているのだと改めて気づかされますね。半年かけてだんだんと目が見えなくなっていった間のことを、聞いてもいいですか?

最初はとにかく混乱しました。片目の視力ががくんと落ち、もう片方も落ちていき、どんどん見えなくなっていく。勤めていた食品製造の会社にも言わなくちゃいけない、いつなんて言おうか。自分の見え方を説明してもうまく伝わらないし、会社側も初めてのケースでどうしていいのかわからない。そして、自分はできないことだらけになっていき、日常のあらゆることに困るようになりました。

例えば、それまで得意でしょっちゅうしていた料理ができなくなった。車の運転ができなくなり、買い物にすら自力で行けない。人の顔がわからなくなり、誰がどこにいるのかもわからない。相手の表情が見えないことで、コミュニケーションが取りにくくもなりました。

仕事では、工場の衛生管理をするにも自分に髪の毛が付着しているのかも、工場内のどこが汚れているのかもわからない。さらに、フォークリフトが頻繁に通るので、目がほとんど見えなくなった私が工場内をうろうろするのは危険だとなって。かといって、これまでのようにパソコン業務もできない。じゃあ、何をすればいいのか。やがて、会社に自分の居場所はなくなっていきました。

会社からは事務をするように言われたけれど、当時は画面読上げソフトの存在も知らなかった。画面を最大に拡大したり、虫眼鏡などを使ってみたりするも、うまくいきませんでした。最後はもう、会社に行ってもただ座っているだけ。非常に辛い状況でしたね。そんな状態が二か月ほど続いた後に会社を休職し、その二年後、2023年3月に退職しました。

——それはどうしていいのかわからず、結果的に二年経った感じでしょうか?

それもあったし、現実を受け入れられなかったのもありました。もしかしたら目が良くなるんじゃないかと淡い期待を抱いたり。でも、そんな奇跡は起こらなかった。休職中、最初の一年はふさぎ込んで、うじうじしていました。なんで自分だけが、って悲劇のヒロインじゃないけど。簡単な家事をするくらいで、ほとんどなにもせず、浴びるように酒を飲んでいましたね。

——菰田さんの目が見えなくなっていく中、ご家族の反応は?

子どもたちは幸い、独立した後でした。妻は、「目が悪いからってなんでもしてもらったらええわけじゃない。全盲で一人暮らしをする人もいるんやで。自分でできることは増やしていかないかんよ」っていう人で。長く福祉の仕事に携わり、視覚障がいを持つ人がどうやって生きているのかを知っていたんです。厳しいのかもしれませんが、そのおかげでできるだけ自分でやろうと思えるようになりました。もちろん、妻や周りの人、自治体のサポートなどに助けられながらですが。

——菰田さんは朗らかで、冗談も言うし、話しているとふさぎ込んでいた姿が想像つかないほどです。前向きになったのは、なにかきっかけがあったのでしょうか。

いろんなことが蓄積して、時間をかけて自分の病気を受け入れ、前向きになっていきましたね。一番は、「みとよ視覚障がい者支援センターひかり」(以下「ひかり」)での人との出会いが大きかったです。といっても、最初の頃は、定例会にちょっと出てすぐ帰っていました。当時は自分の状況に対してまだ前向きじゃなかったし、言葉は悪いですが、目の見えない人たちで集まって慰め合うのか、なんて捻くれてもいました。

でも、そんな場所じゃなかったんですね。視覚障がいを持つ人のQOL向上を掲げ、必要な情報共有をしたり、目が見えない状況をどう捉え、どのように困りごとを解消しているのかを会話したりと、前向きな場だったんです。

そのうち、会の最後までいるようになり、みなさんともいろいろ話すようになって。同じ悩みを抱えた人たちと話すことで、自分もできることからやってみようと思えるようになりました。会長の上村さんはほんまにすごいんですよ。親と同年代で、目がほとんど見えないそうですがパソコンをカチャカチャ自在に操作して、大好きな阪神タイガースを応援しに毎年甲子園まで行って。すごいバイタリティのお爺ちゃんやなぁと。

上村さんは「80の爺さんがこれだけやっているんやから、若いもんは目が見えなくてもしっかりせぇ。視覚障がいがあっても社会参加せないかん」と言ってくれる人。うじうじしとる場合ちゃうなと力をもらいました。そして、「ひかり」でいろんな制度や自治体の支援、白杖や便利なツール、やり方などを知ることで、自分にできることが増えていく喜びもありました。そうやって前向きになっていきましたね。僕の身体そのものは健康ですし、相変わらず不便だけど、不幸ではないと思うようにしています。今では運営の一人として、毎月「ひかり」に参加しています。

——「ひかり」で菰田さんが今意識していることはありますか?

最初はどんな人がいるのか、何をみんなで話すのかなど不安や警戒心のある方もいると思うので、極力明るく声を掛けるようにしています。「自販機で缶コーヒーを買うつもりがコーンポタージュやった」なんて失敗談を冗談めかして話したり。何に困っているのかを聞いたら、僕はこう対処しているよとか、ちょっとした雑談もします。話してみないと、お互いどんな見え方なのかわからないですしね。

白杖についてまだ何も知らない人も多いし、持たない選択をしている人もいるので、自分が使ってみてどう感じているのかや知っている情報は話すようにしています。「ひかり」には三豊市の福祉課の人も参加しているので、いろいろと教えてもらえますよ。

僕もそうやったけど、みんな何かに困っていても、どこに何を聞いたらいいのかわからないんですよ。視覚障がい者は移動障がいと情報障がいを併せ持っているんです。情報がどこかに掲示されていても、見えないから知ることができない。こういう集まりに参加すれば、いろんな情報や制度などを知ることができます。そして、孤独から解放されもします。

音声で知らせる腕時計を活用。アラーム機能も。

仕事や生活、必要最低限のことだけができればいいわけじゃない。みんなで集まり、ああでもないこうでもないと悩みを相談し合い、一緒に外に出て、新しいことにも参加していく。そのなかで僕自身、「あん摩マッサージ指圧師を目指す」という次の目標ができ、国家試験を目指して盲学校で勉強中です。

——そうだったんですね。どういった経緯でその目標ができたのでしょうか。

会社を休職し、これからどうするのか見えてなかったのもあり、「ひかり」に集まる人たちにどんな仕事をしているのかをよく聞いていました。すると、圧倒的にマッサージの仕事が多かったんです。やったこともない仕事をゼロからやることに、最初は抵抗がありました。でも、もともと人体の構造に興味はあったし、手に職をつけるにはいいんじゃないかと思うようになって。県内外の盲学校をいくつか見学して、松山の学校に決めました。平日は寄宿舎で生活し、週末は香川に帰ってきています。

——土地勘のない場所での生活は、大変ではないですか?

そうでもないですね。食事は三食出ますし、寮は一人部屋で快適です。そして、パソコン操作や歩行の練習などができる「自立活動」を活用して、できることを増やしています。歩行練習では自分が覚えたい道のりに歩行訓練士が付き添ってくれ、白杖を使いながら行き方を覚えていきます。メモは取れないし、一回では覚えられないので三回は練習します。そうして道を覚えたら、白杖を持って一人で買い物に行けるようになります。

――行きたい場所に行けるようになるまで、時間がかかるんですね。どうやって知らない道を覚えるのですか?

音声信号機があればそれを頼りにします。あとは、点字ブロックに沿って歩くと格子状の蓋「グレーチング」があるので、何個目のグレーチングを左、といった感じで頭の中に目印を作って覚えていきます。歩く際は記憶を頼りにしつつ、白杖を使って道の状況や段差、目印を把握し、エンジン音など耳からの情報も活用します。

——白杖を持つことに、抵抗はありませんでしたか?

最初はかっこ悪いというか、目が悪いことを宣伝しながら歩くようだと、抵抗がありました。人からどう思われるのかも気になりますし。でも、周りの人にわかってもらう必要に迫られたら、そんなこと言ってられんのです。危ないですから。白杖を持たずに人ごみを歩いたら、人にぶつかってしまいます。白杖を持っていたら周囲の人が避けてくれたり、点字ブロックの周辺を空けてくれたりと、配慮してもらえるようになりました。私にとって白杖は、シンボルという意義が大きいです。

白杖を持っていることで店員さんや通りすがりの人から、「何かお手伝いすることはありませんか?」「大丈夫ですか?」と声を掛けてもらうことが最近よくあります。これ、本当にうれしいんです。CMやドラマなどによって白杖の認知がより進んでいると感じています。

——確かに、遠くからでも一目瞭然なので、何か困ってないかな?と、声を掛けやすいです。白杖の使い方は、どうやって覚えたのですか?

自己流で使いながら覚えつつ、歩行訓練士に自宅まで来てもらい、3時間ほど歩行訓練を行いました。杖の振り方、近所に多い側溝の探し方、補助の方がいるときはどこに掴まってどう歩くのかなどを指導してもらいました。あとは自分で応用していく感じです。僕はぼやっとわずかに見えている状態なので、大事なのは段差の確認。唐突な段差や溝、階段には特に気を付けています。車止めは思いっきり足をひっかけて転んでしまうので、本当に怖いです。歩行訓練は自治体のサポートにより無償で受けることができます。香川県には歩行訓練士が一人だけなので、日程調整が少し大変でしたね。

——白杖を持っている人を見かけたら、どのようにするのがいいのでしょうか。

もし余裕があったら、「何かお困りですか」、「お手伝いすることありませんか」と一声かけてもらうことでしょうか。嫌がる人もいるかもしれませんが、僕はうれしいですね。

——声を掛けるときに、どうしたら驚かせないか考えてしまいます。気を付けた方がいいことってありますか?

いきなり後ろから声かけられたら驚くこともあるので、横から、そっと。肩を優しく「ポンポン」と叩いてもらうのもいいかもしれません。誘導するときには自分の腕を掴んでもらうのがいいのか、左右どちら側に立つのが良いのかなど、相手に聞くのがいいと思います。僕はお喋りが好きなんで、誘導中の世間話も歓迎です(笑)。

——以前、人の多い交差点で白杖に気づいてお声がけしたら、信号を渡ってカフェに行きたいとのことで付き添ったことがあります。何かできることがあるかもしれない、困っているかもしれないと思っても、やっぱり声を掛けるのはとても緊張しました。歩いている間、どうしたら方角がわかるのかなと聞いてみたら、「喋ってくれたらそれで方角がわかるから、少し前を喋りながら歩いてほしい」と教えてもらって、「これくらいの速度でいいですか?」と確認しながら、一緒に歩いた経験を思い出しました。

きっとうれしかったと思います。周りの人が気に掛け、声を掛けることで障がいを持つ人も外に出やすくなるし、いろんなことに参加できるようになるんちゃうかな。僕もそうでしたが、どうしても家にこもりっきりになってしまうんですよね。怖いとか、家におった方が安全って気持ちはわかる。でも、今は行政の支援やいろんなデバイス、ツールがあります。障がいがあっても街に出られ、自分のしたいことが全部じゃなくても、一部叶う時代になっていることをあらゆる人に知ってもらいたいです。

白杖にしたって、知らない人はまだまだいるのが現状です。僕は白杖をあえて持っているし、オーバーアクションで歩いて、自然と見れば伝わるように意識しています。それは安全のためが第一ですが、「こういう人がいるんだよ」とアピールする気持ちもある。だからこそ極力外に出るようにしています。

この駅も、菰田さんは一人で利用する

——菰田さんが日々どんなふうに暮らしているのか、細かなことをもう少し詳しくお聞きしたいです。

移動については、練習して道を覚えれば白杖を持って自力で移動することができます。よく行く場所であれば、一人で公共交通機関を利用しています。タクシーを使うこともありますね。頼れるものには頼っていて、自治体の移動援護「同行支援」を利用し、病院やショッピングセンターまでヘルパーさんと移動することもあります。必要な時に依頼していますが、結果的に結構な頻度になっています。

これも最初は知らなくて、「ひかり」で教えてもらったことの一つです。生活に関することを援護する「居宅介護」を利用し、部屋の掃除などの家事をヘルパーさんと一緒にすることもあります。とても助けられていますね。自治体の援護は各人に合わせた利用時間の上限があり、今は平日松山にいるのもあって必要頻度が落ち着いていますが、香川に住んでいた時は規定時間を超えるからここまでだ、という感じはありました。

——家族ではなく、ヘルパーに頼る心理的なハードルはありませんでしたか?

最初はありましたね。トイレの場所を聞くのも恥ずかしいですし。でも、そうも言っておれんのです。妻も仕事があるので付きっきりは難しいし、必要に迫られたらしょうがない。ヘルパーさんの予約なども、自分でやっています。

——どのようにやりとりしているのですか?

LINEやメール、電話など、スマホで連絡しています。スマホでは読み上げ機能や音声操作を活用しています。iPadは携帯型拡大読書器を使って大きく拡大した文字を至近距離で確認し、今のところはなんとか自分の目で見て、キーボード入力もしています。でも、目がとても疲れてしまうんです。液晶画面は見やすくなるよう色調整していて、僕のように眩しさが苦手な人は黒背景にグレーっぽい白文字に設定することが多いです。

携帯型拡大読書器でスマホの文字を拡大し、至近距離で確認する

——買い物時の会計は、どうしているのですか?

最近増えたセルフレジは操作が難しいので、ヘルパーさんを信用して支払いを任せています。非セルフレジでは自分でお金を渡します。いくら持っているのか把握しているので、目の前にお金を持ってきて至近距離で確認して。それでも見間違うことがあるので、お店の人を信用して頼ってお釣りをもらう、という状況です。

——白杖を持っていたら、手がふさがってしまうのではないでしょうか。

そうならないよう、いろんな工夫をしています。荷物はリュックに入れて両手が空くようにして、白杖はクリップを服の前部分や上着につけることもあります。傘を持っていたら両手がふさがって不便ですが、しょうがないし、なんとかなっています。

——一人で買い物に行くときは、どうやって欲しい商品を見つけていますか?

お店の人に「目が悪いんで、買い物手伝ってくれへんやろか」とお願いしています。すると大体快諾してくれて、カゴを持って付き添ってくれます。間違えて、お客さんやったこともあるけど(苦笑)。お弁当の種類や新商品について聞くこともあるけど、忙しそうなときは欲しいものだけぱっと買う感じです。いろんなものを見てそこから選ぶ、という買い物とは少し違いますね。

——新しい場所に行くとき、怖くはないのでしょうか。

今はそうでもないですね。最初こそ人を頼れなかったですが、営業職の経験があったし、口八丁手八丁じゃないけど(笑)、「この場所、どこにあるんかな」って近くにいる人に聞けるようになりました。でも、誰もがそうではないと思います。聞きたいと思っても最初はなかなか話しかけらなかったし、ふさぎ込んでいるときは、人を頼るのはかっこ悪い、嫌だと思っていましたね。だって、鏡を見たって自分の顔や髪がどうなっているのかもわからないし、服の汚れや乱れもわからない。今は吹っ切れていますが、自分が変じゃないか気になって、最初の頃は外に出るのも嫌でした。

——見えない相手、よくわからない人を頼る、信用するのって、結構勇気がいることですよね。

そうですね。慣れるのには時間がかかりました。今の目の状態になってから、一年くらいかかったかな。たまに、冷たくあしらわれたことも、めんどくさそうにされたことだってあります。僕がどの程度目が見えないのか想像つかず、「あそこにあります」って指差して終わることもあった。でも、そういう時は「目が悪いので、一緒に探してもらえますか」とお願いするしかない。そうやって伝われば、サポートしてもらえます。たまにカチンとくるようなことだってありますよ。でも、しょうがないんです、こうなってしまったら。配慮してもらうしか生きていく道はない。自分も50になって、丸くなったしね(笑)。

——今の暮らしは、どのように生計を立てているのでしょうか。

僕個人でいうと、休職以降、今も収入はゼロです。盲学校は国からの補助があり、世帯所得によって負担額が変わります。妻は働いていて、私は障害年金をいただいています。幸いだったのは、子どもが就職していたことですね。

——今でも、後ろ向きな気持ちになることはありますか。

ゼロではないです。一人っきりになった時にはどうしても……。考えないようにしているけれど、今よりもっと見えなくなったら、もし全盲になったらとか。でも、なったらなったでなんとかできるわ、と思うようにしています。

困ることはたくさんあるんですけど、今の自分でどう生きるのかを考えるようにしています。なんでも捉え方次第。例えば、目が見えなくなったことで、僕は「ひかり」の人たちと出会えました。そんな人との出会いによって、新しい自分の居場所ができ、次の目標もできた。今はいい方向に進んでいるんちゃうかな。そういうものの見方をすることで、視覚障がいをちょっとでも受け入れられるようになる。ときには後ろ向きになったっていい。きっとまた、前を向けますから。

菰田雅人
1974年香川県生まれ。調理師を経て食品加工会社に17年勤めていたが、中途視覚障がいとなり、退職。現在はあん摩マッサージ指圧師を目指し、盲学校で勉強に励む。学校では生理学、解剖学を学ぶかたわら、フロアバレーボール、サウンドテーブルテニスなどのスポーツも楽しみ、学生生活を満喫している。「みとよ視覚障がい者支援センターひかり」役員、香川県網膜色素変性症協会会員。

みとよ視覚障がい者支援センターひかり
目の見えない方や見えにくい方、そのご家族を対象にした支援活動、支援者として活動したい方に向けたサポートを行っている(原則、香川県三豊市内に住民票のある方が対象)。スマートフォンやタブレット端末などの使い方を学ぶICTセミナー、視覚補助具や福祉制度に関する情報提供、相談受付などを行っており、毎月交流会を開催している。
◆交流会:原則毎月第4土曜日13:30~15:30にみとよ未来創造館にて実施。参加無料、要事前申し込み(事務局:090-6902-8621/受付:月~金9:00~12:00)。日程が変わることもあるので、必ずご確認・お申し込みの上ご参加ください。

*記事の内容は、掲載時点のものです

瀬戸内通信社 編集長/ライター、コピーライター:愛知県出身。12年ほど東京で暮らし、2016年に小豆島、2019年に香川県高松市へと移り住む。豊島美術館、李禹煥美術館が好き。

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